石狩ファイル0074-01(2006年9月30日)
佐藤松太郎(1863〜1918)
網元・実業家。江戸時代も終わりの文久3(1863)年、厚田・安瀬(やそすけ)村の漁師の家に生まれた松太郎は、若いころから家業であった漁業に大変な関心をいだき、常に漁具や漁船、海の天気などの研究に熱心でした。漁師として父の仕事を引き継いでから、松太郎は天才ともいえるほどの記憶力と正確な直感力を駆使し、当時、石狩から厚田、浜益の沿岸に99ケ所あった漁場のほとんどを所有する大網元の親方になっています。その頃、親方の下で働く人は、東北地方から雇い入れた漁夫とアイヌを合わせると最盛期には2,000人におよび、年中300人ほどの雇夫がいたといわれています。当時の漁業家の長者番付(写真「ニシン漁家列伝」)には横綱の地位を得て、全道はもちろん全国屈指の高額納税者になっていました。
明治末期にはいると海運業にも乗り出し、11隻もの船舶を所有、魚介類やニシン粕を関西や瀬戸内地方に積み出し、実業家として大いに活躍しました。やがて、厚田の海にニシンが来なくなるのを見越して、北海道の西海岸から樺太、カムチャッカへ進出し、大実業家として活躍します。そして、明治40(1907)年には北海道議会議員に推されほどの信頼を得ました。
厚田に初めて電気をひき、厚田尋常高等小学校や発足(はったり)分教場建設に巨額の寄付をするなど、松太郎はその富を地域のために注ぎました。思いやりも深く、困っている人々には惜しみなく援助の手を差しのべます。七福神の布袋(ほてい)のように福々しい顔と大きな腹を突き出した巨体だったことから、厚田の人々は親しみを込めて「ヤママル(屋号)の布袋さん」と呼びました。 その「布袋さん」は、当時世界各地に広がっていたスペイン風邪により、大正7(1918)年11月、小樽で57歳の生涯を閉じました。
明治37年母親の隠居宅として建てられた「戸田旅館」は、厚田のまちに重厚な趣をいまに伝えています。
(木戸口道彰)
参考文献