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石狩ファイル0103-01(2009年9月15日)

荘内藩ハママシケ陣屋跡

しょうないはんはまましけじんやあと


ハママシケ陣屋跡・大手門
陣屋は浜益(はまます)川右岸の低い丘陵地にあり、現在は土塁の一部が大手門付近で見られます。安政6(1859)年9月、幕府から領地を分与された荘内藩が建設したものです。設置目的は、蝦夷地をロシアなどから防衛するためです。荘内藩の領地は浜益から天塩(てしお)までで、警備範囲は領地と厚田(あつた)から現寿都(すっつ)町・歌棄(うたすつ)付近まででした。

また同藩は防衛任務だけでなく領内の開拓も目指し、領内から郷夫も募集し、清水、吉岡、弥陀、柏木原、山崎、関、門田、黄金(こがね)の各村を作り、農業も行い、開拓を行っていました。そして元治元(1864)年には、道央では最も早い水田耕作を行っています。

この陣屋には領民もおり、行政も行なわれていました。陣屋内の主要な建物としては、奉行所を中心に、藩士たちが住む御家中長屋、大工小屋、武器蔵をはじめ各種の蔵、鎮守などがあり、200人余りの藩士が暮らしました。この中には後に開拓判官となった「松本十郎」が含まれています。また、陣屋の建設資材はすべて酒田から運び、陸揚げのため浜益川から陣屋下まで約435mの「千両堀」が掘られました。現在もその跡が浜益川から丘陵の麓まで残っています。

戊辰戦争に伴い藩士が酒田に引き揚げたため、陣屋は明治元(1868)年に解体されましたが、鎮守は現在の川下(かわしも)八幡神社として地元に残され、現在も川下地区の住民たちに親しまれています。

陣屋の構造が良好に残り幕末の国際情勢をうかがえる遺跡として歴史的、学術的に価値が高く、昭和63(1988)年、国の史跡として指定されました。

(石橋孝夫)

所在地石狩市浜益区川下
指定面積167,809.50m2
国史跡指定月日昭和63(1988)年5月17日
建設年万延元(1860)年
建設荘内藩(庄内藩とも書く。正式には鶴岡藩)


参考文献


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