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石狩ファイル0104-01(2009年9月15日)

地図から消えた石狩の地名

ちずからきえたいしかりのちめい


現在、わが国で発行されている地形図(国土地理院が発行)には、1万分の1、2万5千分の1、5万分の1の三種類があります。そのうち5万分の1地形図「石狩」が最初に作成されたのは明治29(1896)年で、以後明治43、大正7、昭和12、22、26、32、43、48、53、63年と続き、もっとも新しいものは平成5(1993)年に発行されています。 それぞれの地形図をながめると、時代の流れとともに地域の変化が読み取れます。なかでも地名の変遷は興味深い。ここでは「石狩」の5万分の1地形図に限って、地図から消えた地名の一部を紹介しましょう。

志美(しび)・・・明治43年から昭和53年版まで掲載。
アイヌ語「シピシピウシ」で木賊(とくさ)の多いところの意味。石狩川茨戸川に囲まれた地域で昭和52年まで小学校もありました。現在は行政区名称として地名が残っており11世帯22人(平成20年3月)が住んでいます。ここには縄文時代後期の遺跡群「志美遺跡」があり、昭和53(1978)年に調査が行われました。

来札(らいさつ)・・・明治29年から昭和63年版まで掲載。
アイヌ語「ライ・サツ」で乾くの意味。死んで干上がった川・古川をさす。石狩川の河口右岸にあった地名で、明治18年江別対雁(ついしかり)から樺太アイヌがこの地に移住し居住区があったが、同39年に樺太が日本領になったことから再移住しました。明治末期に五の沢から送油管が建設されことから、昭和12、26年版には、石油タンクが見られます。

八ノ沢(はちのさわ)・・・大正7年から昭和32年版まで掲載。
知津狩(しらつかり)川の支流にあった小沢につけられた地名で、大正7年版には「五ノ澤」「八ノ澤」「九ノ澤」が記載されています。かつて「八ノ沢」は石狩油田の中心地で、安政5(1858)年に油田を確認、明治36年から本格的に採掘が行われ、最盛期の昭和4年には年間産油量1万kl、油井188抗、従業員250人を超える規模となりました。しかし産油量の減少により昭和35年油田の歴史を終えました。地域には小学校も設置されていました。

分部越(ふんべこえ)・・・大正7年から昭和48年版まで掲載。
アイヌ語「フンペ・オイ」で鯨のいるところの意味。鯨が獲れたことからついたと思われる。樽川(たるかわ)10線にあったことから、地元では「十線浜」と呼び海水浴場として親しまれました。昭和48年から始まった石狩湾新港の建設により地名は消え、現在は「新港中央」となっています。

鯨塚(くじらづか)・・・明治29年から大正7年版まで掲載。
石狩のこの地名の由来は不詳。一般には漁村において岸に打ち上げられた鯨をまつった塚のことで、愛知県西予(せいよ)市など全国で見られます。鯨を食料として救われたり、潤ったりしたことへの感謝や追悼の意味で塚を建てたことからこの地名が生まれたといわれています。ここから南西の海岸には鯨にちなんだ「分部越」がありました。

(木戸口道彰)


参考文献


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