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石狩ファイル0110-01(2009年9月15日)

生振の歴史

おやふるのれきし


■開拓以前
生振(オヤフル)の地名はアイヌ語に由来しますが、更科源蔵の解釈によれば、旧石狩川に沿って東西に伸びていた丘を指す「川尻の丘」という意味だそうです。

今までに発見された遺跡・遺物から、生振に人が住み始めたのは、約4千年前のこととみられています。本州からの開拓移民が始まる前の生振には2〜3のアイヌ部落がありました。

■苦難の開拓期
明治4(1871)年、山形県米沢地方の人々124人が入植して集落が形成されたのに伴って、オヤフルの地が生振村と命名されました。明治26(1893)年には、開拓使による植民区画選定が行われ、それに基づく移民募集が開始されると、翌年、愛知県からの団体入植320余人があり、生振村開拓の中核になりました。

この地は、石狩川の蛇行によって形成された特異な地形であるため、地域の大半を占める低地帯は洪水に見舞われることが多く、開拓には大きな困難が伴いました。

明治31(1898)年、石狩川の記録的な大洪水が開拓地を襲い、生振村もきわめて大きな被害を受けました。これをきっかけに、蛇行した流れを直行させるためショートカット(捷水路、しょうすいろ)を建設することになり、最初の工事として生振で掘削が始まりました。14年を費やして行われた難工事の末、昭和6(1931)年、新水路が完成し、洪水の脅威から解放されました。また、この際、北生振地区が新水路によって隔てられることになりました。工事が行われている間にも続けられた開拓の努力と工夫により、えん麦・亜麻・菜種・除虫菊などの栽培が試みられ、大きな成果をあげたものもありました。

明治35(1902)年、親船町ほか9町と合併して、2級町村制の石狩町となり、明治40(1907)年には1級町村制の適用により住民自治の機能が拡大しました。

■安定した農産物供給地へ
昭和10(1935)年には、札幌への道路が開通して、水害にならぶ難点であった他地域との交通の困難が軽減され、農業経営の上にも安定をもたらしました。

昭和12(1937)年の日中戦争後は戦線拡大に伴い、作物の種類に制限を受けたり、増産を指示されるなど戦時の統制を受けましたが、徴兵によって働き手を失い、肥料・農機具も不足した状態で、残された人々に農作業が重くのしかかりました。

昭和20(1945)年敗戦の後は、稲作が急激に進み、昭和40(1965)年には畑作を生産量・金額とも上回りました。食味や収穫高の優れた品種の研究も行われ、成果が上がってきましたが、昭和45(1970)年には米の過剰傾向から生産調整が行われ、稲作の発展にブレーキがかかりました。

現在の生振地区は、開拓期以来のさまざまな困難を乗り越えて、農業地として確かな地歩を築いています。人口は減少傾向にあり、平成20年10月の登録人口は442人です。

少子化に伴い、統廃合が進み、現在唯一となった生振小学校では、特認通学校の指定を受けて、他学区の児童を受け入れ、自然と人とのふれあいを重視する特色ある教育を行っています。

(林 迪子)


参考文献


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