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石狩ファイル0111-01(2009年9月15日)

南線の歴史

みなみせん*のれきし


南線地区は、現在、住所標記では花川南とされる地域を指していますが、かつては、現在の花川北地区の一部を含む、道々手稲花畔(ばんなぐろ)線から東側の地域を指していました。ここは、かつて樽川(たるかわ)原野の一部でした。南線という呼称が成立した理由は、明治35(1902)年、樽川と花畔との合併で花川村ができた時、樽川にも花畔にも南○線という地番があり、混乱を避けるためであったようです。

南線地区を含む樽川原野には、明治18(1885)年、山口県からの入植があり、開拓がスタートしました。樽川では、酪農が盛んになり、優良な牛が生産されたこともあって石狩町酪農の中心地となっていきましたが、そのきっかけとなったのは明治33(1900)年、南線地区での最初の乳牛飼育でした。その頃、了恵(りょうえい)寺や南線神社が建設されたことで、農作業と季節行事を通じて南線地区の人々の間に一体感が生まれてきました。

その後、畑作酪農で発展してきた南線地区ですが、戦中戦後にかけて、地力の低下から作物の収量が減少し、それを打開するため、稲作に転換しようという試みが始まりました。昭和23(1948)年、用水路掘りから造田作業が始まり、農家と町が一体となっての努力の結果、開田に成功しました。

しかし、昭和39(1964)年、減反政策が始まり、それまでの安定した農業経営に陰りがさした頃、大規模住宅団地の造成販売を計画していた内外(ないがい)緑地株式会社との間で現在の花川南地区の土地売買契約が成立し、昭和40(1965)年「新札幌団地」という名称で宅地の販売が始まりました。始めは、広い土地に住宅が点在するだけで、生活には不便が多く、吹きさらしの冬の厳しさもあって、中には転居していく人もいましたが、昭和41(1966)年には町内会が発足し、署名運動に取り組んだ結果、中央バス路線が開通し、続いて浄水場の建設や、出張所などの公共施設建設が続き、昭和44(1969)年には、戸数365、住民1,195人まで増加し、住宅団地としての体裁が整ってきました。

昭和48(1973)年には、北海道住宅供給公社が現在の花川北地区を「道営花畔団地」として分譲を開始したことで、かつて南線と呼ばれた地域は、すべて住宅地へと姿を変えていきました。昭和51(1976)年、「新札幌団地」は花川南、「道営花畔団地」は花川北と変更されて現在に至っています。

現在の花川南・花川北地区は、上下水道、道路や交通機関、医療機関、公共施設等生活の基盤となるものも充実し、大規模店舗や大学なども進出しています。平成20(2008)年1月現在の人口は、花川南地区25,112人、花川北地区17,050人で、石狩市全体の7割近くを占めています。かつての農業地「南線」は、移住してきた人がほとんどを占める団地へと大きく変貌を遂げましたが、南線小学校、南線神社などにその名称をとどめ、開拓の歴史を伝える逸話もかろうじて伝えられています。

(林 迪子)

※古くは「なんせん」と呼ばれていた。



参考文献


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