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石狩ファイル0054-01(2006年9月30日)

浜益の歴史

はまますのれきし


石狩市浜益区
浜益には6,000年前頃から人が住んでいました。オホーツク文化を持つモヨロ人の遺跡も見つかっています。中世はアイヌの人達が生活しており、叙事詩ユーカラは浜益が発祥の地といわれています。和人がこの地域に本格的に進出するのは江戸時代のことです。

宝永3(1706)年、松前藩は、ヘロクカルシ(浜益)にアイヌ人を集めて、マシケ場所を設け、鰊漁業を行いました。これが、浜益の鰊漁業の始まりです。その後、場所の経営は、場所請負人と呼ばれる商人が請負うようになりました。天明5(1785)年、マシケ場所は、マシケ場所(雄冬(おふゆ)〜留萌(るもい))とハママシケ場所(雄冬〜毘砂別(びしゃべつ))とに二分されます。文化4(1807)年、ハママシケ場所は幕府直轄地となり、その後、松前藩に復領、安政2(1855)年に、再び幕府直轄地になりました。安政6(1859)年、幕府は、荘内藩にハママシケ場所の警備と経営を命じます。荘内藩は警備と共に農業移民も募集して開拓にも力をそそぎました。ハママシケに一般人が住むようになったのは、この時以来のことです。しかし、慶応4(1868)年、幕府崩壊と共に、全員が全てを放棄して引き上げました。

明治2(1869)年、ハママシケは浜益と改称され、場所請負制も廃止されました。明治3年10月から翌8月までの東京芝増上寺支配のあと、開拓使直轄となりました。明治5(1872)年には、茂生(もい)村(浜益)に戸長役場がおかれて、浜益郡(浜益区と黄金(こがね)区、後に区は村となる)を管理しました。開拓使の移民奨励政策により、山形、新潟、秋田、青森などから多数の移民があり、浜益郡の人口は、明治5年の173戸813人(うちアイヌ177人)から、明治30(1897)年には、836戸4,296人(うちアイヌ151人)になっていました。明治40(1907)年、一級町村制が施行され、浜益村と黄金村は合併して浜益郡浜益村となりました。人口も約6,000人に増え、鰊漁業も隆盛をきわめました。

大正期になっても人口は増加し、大正8(1919)年には8,000人台となりその後も末期まで安定していました。

昭和期に入ると、鰊の漁獲量が大きく変動するようになり、それにつれて人口も減少し、昭和15(1940)年には5,000人台となりましたが、昭和20年以降は、海外からの引き揚げなどで9,000人台に増加しました。しかし、昭和30(1955)年、突然、鰊が獲れなくなり、250年間にわたる鰊漁業が終わりをつげました。同時に人口も減少していき、昭和46(1971)年には、5,000人台となり、その後も回復はしませんでした。 平成17(2005)年10月、浜益村は石狩市と合併して、石狩市浜益区となりました。平成18(2006)年2月現在の浜益区の人口は、2,073人となっています。

(石井滋朗)


参考文献


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