石狩ファイル0068-01(2006年3月31日)
高岡地区周辺 |
■ はじまり
周防(すおう)国玖珂(くが)郡中津村(現山口県岩国市)から20戸106人が入植したのが、開拓の始まりです。
日本海まわりの帆船で3週間もかかって小樽港に入港した航行中に、船内で「赤ちゃん」が誕生し、アメリカ人の船長が「フネ」と名付けたエピソードが残されています。
上陸後は、小樽から軽川(がるがわ:現在の手稲)、札幌などで入植地を探しましたが適地がなく、最後に知津狩川(しらつかりがわ)沿いの低地に落ち着くことになったのです。しかし、翌年春、融水期の大洪水にみまわれて、高台に移転しました。
■苦闘
入殖者が貸付を受けたのは1戸当り5,000坪(16,500m2)です。高岡は肥沃な土地ではありましたが、クマザサが生い茂り、クマも出没する原生林の開墾は困難をきわめました。飲料水も、粘土地帯の高岡では良質ものが得られず、夏には沢の清水を運んで使わなければなりませんでした(のち明治44年になってようやく良水の井戸が掘りあてられたのです)。
■発展
明治22(1889)年に、竹中與衛門が、石狩で始めて水稲栽培に成功します。明治30年代の初めには農耕馬の導入が広まって耕作能率が格段に上がりました。入植者も山口県からの第2陣をはじめ、兵庫、徳島、富山、秋田、石川、新潟、福井、愛媛各県から集まり、明治37(1904)年頃には五の沢を含めて200戸が住むようになっていました。大正期になると国内外の需要増で、エンバク、でんぷん用バレイショ、コムギなど畑作物の作付けが大幅に増えました。
昭和に入って5(1930)年には、地蔵沢と五の沢に貯水池が作られて、水田用水が安定供給されるようになりました。
このように、明治末から大正、昭和初期にかけて、高岡の農業基盤はかたまったのです。
(石井滋朗)
参考文献