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石狩ファイル0079-01(2007年3月30日)

浜益の果樹栽培

はまますのかじゅさいばい


観光客でにぎわう果樹園
観光客でにぎわう果樹園
日本海沿岸の国道231号(通称・オロロンライン)を北上し、旧浜益村の中心市街から車で10分ほど走ると、海岸沿いに幌(ぽろ)の集落が見えてきます。この付近は、日本海の暖流の影響で周辺地域に比べ温暖なため、明治時代から果物の栽培が盛んで、いまでは石狩市内で唯一の果樹園が見られます。

開拓使は、北海道の気候が果樹栽培に適しているということで、明治7(1873)年、札幌に果樹園を設け、外国種のりんご、なし、桃、サクランボ、ぶどうなどの種苗を東京官園から移植・育成しました。その後、開拓使は道内各地に果樹栽培を積極的に奨励し、浜益村には明治10(1876)年、りんご、すもも、サクランボなどの苗木が無償で配られ、村内で希望する地区のうち、幌、茂生(もい)、実田(みた)などで果樹栽培が始まりました。なかでも幌地区は果樹栽培に熱心な地域でした。苗木は、浜益の温暖な気候風土によく適合し、生育もよく品質も劣らない果物を生産し、札幌はもとより増毛(ましけ)、留萌(るもい)、稚内(わっかいない)、樺太(からふと)まで販路を広げていきました。

昭和に入ってからも盛んだった果樹栽培は、戦争が始まると人手不足から管理が行き届かない農園では病害虫が発生するなどして、やむなく放棄や売却するものも現れます。昭和10年頃には1万3,000本以上あった果樹は、戦後の昭和22(1947)年にはわずか3,000本ほどに減少し、浜益の果樹栽培はすっかり衰退してしまいました。
しかし戦後は果樹の需要が増加し、細々と経営を続けていた果樹園は、新種の導入や老齢木の伐採など苦労を重ねた結果、昭和26(1951)年には4,500本、同27年には5,300本を数えるまでに回復し、新たにぶどう栽培も導入し、昭和34(1959)年には果樹の総数は7,300本あまりに増えます。さらに果樹共済への加入によって果樹園は台風などの被害にも安心して経営できるようになり、浜益村の果樹栽培はみごとに復活しました。

このような歴史をたどってきた浜益の果樹栽培ですが、いま浜益幌果樹組合に加入する果樹農家は11戸。うち一部の農家はサクランボ、りんごなどの観光果樹園を経営しており、初夏のサクランボに始まり、梅、プラム、桃、ぶどうと続き、秋の実りはりんごの収穫で終わります。各果樹園は直売方式によりできるだけ来客のニーズに応えられるよう、多種類・多品種の果物を栽培するなど、経営に工夫をしています。いま抱える課題として後継者の確保が大きな悩みであり、また、サクランボやプルーンなどの劣化を少なくするために、雨よけハウスの整備も急がれます。さらに、ジャムやジュース、コンポートなど加工品の研究開発も求められています。

(木戸口道彰)


参考文献


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